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ナイル・ロジャース、サウス・バイ・サウス・ウェストにて「誰も語ることのできないストーリー」



「僕のキャリアと人生は本当に特異なんだ」とナイル・ロジャースは語る。「64歳の黒人でレコード業界の第一線にいる。これってあり得ないことなんだよ」

デヴィッド・ボウイ、ダイアナ・ロス、マドンナ、アル・ジャロウ、グレース・ジョーンズ、シスター・スレッジ、ダフト・パンク、そして勿論シック。何がこれら全てのアーティストの共通点だろう?それはナイル・ロジャースだ。

40年にわたってロジャースはいくつもの名曲をポップ・ミュージック・シーンでプロデュースしてきた。そして数え切れないほど多くのアーティストが彼の曲をサンプリングしている。彼の音楽への貢献はついに評価され2016年の終わりに「ロックの殿堂」入りへ彼を導いた。

ロジャースはNPRのマイケル・マーティンとテキサス州オースティンで行われたサウス・バイ・サウス・ウエスト・ミュージック・フェスティバルにて基調講演を行った後に、NPRのマイケル・マーティンのインタビューに答えた。(これは読み物に編集したもので、インタビューの視聴用リンクが貼ってあります)

マイケル・マーティン(以下M)

Top40ミュージック(チャート)の中であなたは実はスノッブであり続けたと講演でお話されていました。

40年間、音楽において様々な影響を与え続けてきたあなたがスノッブであるというお話は愉快でしたね。

ナイル・ロジャース(以下N) そうだね、僕はお高く留まったすごく嫌な奴だったのさ。僕が音楽をプレイし始めたのはクラッシック音楽だったし、素晴らしいクラッシック・ギターの先生に師事していたんだ。そしてリンカーンセンターで「ザ・ライブラリー・オブ・パフォーミングアーツ」のリサイタルでの演奏を与えられた。でもリサイタル後に、この世界でひとりの黒人ギタリストがコンサート行うなんて考えられないって気づいて会場を去ったよ。智恵を絞って考えたりして、僕はナルシソ・イエペス(*注)みたいになれたら良かったと思ったんだ。それから自分自身について考えた。「でもなぁ。僕は彼より上手くプレイできない。これからも決して僕はあんな風に演奏出来ないだろうな」それに気付いて僕はクラッシック・ミュージックを学ぶことをやめ、ジャズに転向したんだ。おまけに僕のジャズギターの先生は、僕の人生にもっとも影響を及ぼした人物なんだよ。バナード・エドワーズの次にね。

*ナルシソ・イエペス…スペインのギタリスト、作曲家。10弦ギターで世界各地を演奏。全世界で圧倒的な人気を誇った。 日本にも計17回来日した。1997年に69歳で死去。

M: そのジャズの先生は、あなたに気付きを与えるためにどんなことを言っていたのですか?

N: 彼が言ったことは…、『Top40、Top20、Top10あるいはNo.1になったどの楽曲も、作曲が素晴らしい』ということだよ。「素晴らしい作曲?」と僕は聞いた。そして当時のヒット・チャートの1位だったザ・アーチーズの”シュガー・シュガーを歌った。それから僕は言った「これがあなたの言う素晴らしい作曲?」そうすると彼は「まさしく!あの曲は4週間も1位でい続けた んだ」僕は聞いたよ「うーん。なぜあなたはヒットチャートの上位にある楽曲が素晴らしい作曲だと考えるのですか?」先生は答えた。「1位の曲というのは、それだけ未だ見ぬ何百万人のソウルに語りかけてるということだからだよ」僕は「そうか、すごい!!!」と唸ったよ。とにかく驚いた。そしてその2週間後に「エヴリバディ・ダンス」という曲を書いたんだ。(「エヴリバディ・ダンス」の歌詞を口ずさんで)そしてこの曲が僕たちシックを有名にしてくれたんだ。

M: 今は亡き、あなたとシックを一緒に立ち上げたバナード・エドワーズとあなたは、明確に他のバンドとはサウンドの方向性が違いましたが、これはどのように解釈されますか?

N: 僕らの考え方はこうだ。多くの R&Bミュージックはゴスペルかブルースをベースにしている。でも僕らは教会から来た訳じゃない。それは僕らのバック・グラウンドじゃないのさ。僕のルーツはクラッシク音楽とモダンジャズで、それはビバップなんだ。だから僕らは当時僕たちが「モダール・ジャズ」って呼んでいたものにハマって、それでモダール・ジャズを取り入れてポップ・ソングを書き始めたりしたんだよ。

M: シックが結成された時、あなた達はフランスのバンドがアメリカのファンクミュージックを演奏している「ふり」をしていたと私は思ったのですが、あれは何故でしょう?

N: まさにその通りだよ。ジャズの歴史と、その頃のシックとしてあり方を考えてみると、多くのジャズ奏者がアメリカで成功した後にフランスへ渡って上手くやってる。ニーナ・シモン(*注)を見てごらん。最近じゃティナ・ターナーもスイスに移住してるようにね、人々は(アメリカにいるよりも)リスペクトしてくれるし、別格の存在としてもてなしてくれるからなんだ。

*ニーナ・シモン

アメリカ出身の黒人女性ジャズ歌手。尊敬するフランス女優シモーヌ・シニョレに因んで名前をニーナ・シモンと名乗る。60年代黒人公民権運動に参加する等、精力的に人種差別について闘った。晩年はフランスに移住。2003年にフランスで乳癌による闘病の末、客死。

だから僕らは思った。「もし、逆に考えてみたらどうかな?」もし君がフランスからアメリカに来たとして、ただ音楽をかける時に、レイシズム(人種差別主義)とかそんなものは気にするかい?「君たちってハーレム出身?」「いいや、違うよ、モナコから来たんだよ」僕だったらそんな風に言うかな。だからそんなふうにフランスのバンドだという作り話をしたのさ。

M: ファレルの大ブレイク前、まだ彼がフロントマンとして売れる前に、人々は彼に質問し続けていました。「あなたって本当に純粋な黒人なの?」「あなたの血筋って特別なの?」(訳注:ファレルはその容貌から、アジアンとのミックスではないか、アフリカン・アメリカン以外の出自も含まれているのではないか、等よく質問を受けていたとのこと)彼は「いえ、僕は普通の黒人なだけです」と答えていました。私は彼がしてくれたその話を覚えているし、気になっていたんです。その時から世間は変わりましたか?何かは変わったのでしょうか?

N: 変わってはいないね。実のところ、そういう訳で僕の人生とキャリアは本当に異様だと言えるんだよ。つまりね、僕は64歳の黒人男性でレコード業界の第一線にいる。これはおかしな事なんだ。だって黒人のバンドなんて他にいないだろう?もし君が若い黒人アーティストでバンドをやっていたとしたら、君は何処と契約出来る?黒人バンドと契約してくれるレーベルを挙げてみてごらん。もし君が若い白人アーティストならバンドをやれるだろうね、でももし君が若い黒人アーティストだったとしたら、バンドなんて持てないはずさ。

M: 何故ですか?

N: 僕には解らない。なぜならばレコードレーベルはサポートしてくれないからなんだ。彼らはレコードが売れて生き残れる世界がそこにあるってことを信じていない。このことは僕たちの考え方も変えるんだよ。僕は自分のビジネスにリスクを負ってまで政治的発言をすべきだなんて言うつもりはないけど、でもこれはまさしく現実なんだ。僕たちがどこかでパフォーマンンスをするとき、不思議がってみんな言うんだ「ちょっと、ミスター」もし僕たちがミュージック・ビデオや何かを作ったら「ミスター、あなた本当に演奏できるのかい?」本当にそうやって聞いてくるんだ、特に若いキッズ達は実際に僕たちがプレイ出来るということに驚いているんだよ。

M: ラップアーティストの活躍によってそうなったのでしょうか、或いは音楽教育によってなのでしょうか...

N: 振り返ってみれば、まさしくそうなんだ。僕はごく普通の昔からあるような公立学校で音楽を学んだ。 ちょうどファレルが「いいえ、僕はごく普通の黒人ですよ」と言ったようにね。学校の必修科目だったから音楽を学んだだけなんだよ。

N: もし音楽が必修科目じゃなかったら、学校に僕の居場所なんてどこにも無かったかも知れない。僕が通ってきた学校は白人の生徒ばかりで、いつも黒人は僕一人きりだったからね。僕の両親はヘロイン中毒だったから次から次へと引越を繰り返していたんだ。 でも、音楽が必修科目だったおかげで、どの学校でもなじむ事ができたよ。僕は早期発達プログラムのある病院の中の療養施設で育てられたんだ。だから、普通の学校に通うようになった時には、すでにハーマン・メルヴィルの小説を読んでいた。6歳の時には「白鯨」を読んでいたんだよ。

M: あなたはとてもすてきな生き方をしているし、喜びに満ちた心をお持ちです。でも実際のところ、あなたの思い出は随分ほろ苦いんですね。結果的には、ロックの殿堂入りという栄光を手にするわけですけど。

N: なんだかおかしな話だよね。

M: とおっしゃいますと?

N: そうだな、なぜならシックは歴史上一番(ロックの殿堂に)ノミネートされたバンドなんだよ。僕たちシックは 11回もノミネートされたのに、殿堂入りを果たせていない。ナイル・ロジャースだけが殿堂入りしたんだ。

僕が少しおかしいなと思うことは、僕たちの唯一成功をしていた期間のことを思うとき、それは1977年から1979年の間だけに名声を得たということだよ。なぜなら、僕たちは1979年を最後にヒット作を出していないんだ。ゴールド、プラチナ、ダブルプラチナのどれも無い。「Le Freak」に関して言えばトリプルプラチナを獲得した。 最近トリプルプラチナなんて獲得したアーティストなんていたかい?僕たちが所属していたアトランティック・レーベルにはいないよ。まぁ、それは不可能だろうね。アトランティックレコードでトリプルプラチナを獲得したシングルは2枚だけ。たったそれだけさ。 アトランティックと言ったら並大抵じゃないレコード会社だよ。レイ・チャールズ、ルース・ブラウンから、ローリングストーンズ、クリーム、クロスビー、スティルズ、ナッシュ等と一緒に輝かしい歴史を歩んできた会社なんだからね。

N: だから面白いんだ。僕たちはたったの2年間でヒットシングルを量産できたんだからね。 それで、シスタースレッジの曲を根本から作ったり、作り直したりしたんだ。シスタースレッジは僕たちが関わるまでヒット作に恵まれなかった。 僕が思うところでは、僕たちが作った作品の中で「We Are Family」は最高傑作アルバムだと思う。

M: あなたがしてくれた複雑な話は、最近の若いアーティスへのアドバイスになるでしょうか?

N: 失敗を受け入れよう。それさえも愛するんだ。正直なところ、変に聞こえるだろうけど、僕たちは最も多くロックの殿堂入りにノミネートされていながら、それが果たせていないということが気に入ってるんだ。それを見て僕はこう言ってるんだよ。「11回もノミネートされながらも、一度も受賞していない」そんな僕たちの記録を破る事なんて出来るかい?でももし、君がそれをやってのけたら…僕は君をとことん褒め讃えるよ。

M: あなたがここを去る前に、あなたのお気に入りの作品について聞かねばなりません。あなたは関わった作品の中でデヴィッド・ボウイの「Let's Dance」が最高だとおっしゃったそうですけど。

N: そうじゃないんだ。デヴィッドのことは僕の人生において最も素晴らしい機会だったと言ったんだよ。なぜなら、それまでに5作品で連続の失敗をしていたからね。つまり僕はスランプ中だったんだ。何も良い事が起きなかった。そんな時にデヴィッドと出会った。1982年のことさ。その時シックはバラバラになってしまっていたから、僕は独立してデヴィッドとパートナーシップを築いた。バーナード・エドワーズの時と同じくらい良い関係をね。

彼は僕に絶大な信頼を寄せてくれる人だったよ。僕を信頼し、信じてくれたのは本当に素晴らしかったね。他のみんなは「ディスコ音楽なんて最低」と言ってたからね。最悪だよ、誰も僕の電話に出てくれなかった。

でも、デヴィッド・ボウイは僕にプロデユースさせてくれたんだ。ちょうど船の舵を取らせてくれるようにね。 人生で一番気楽なレコーディングだったなぁ。開始から完成まで17日間で仕上げてしまったんだよ。

N: なぜなら、僕たちは黒人のようにデヴィッドとのレコーディングをしたんだ。 大抵、僕たちのレコーディングのやり方は、8時間のセッションをいくつか予約するというものだよ。片やロック・バンドはスタジオを押さえてそこに籠り、数か月かけて制作するのさ。黒人とのレコーディングはスタジオを出たり入ったり、とにかく出たり入ったり出たりするものなんだ。それと同じやり方でデヴィッド・ボウイとはレコーディングしたんだ。僕はそのやり方しか知らないから。黒人のレコーディングのようにね。

M: シックというバンドは、あなたやバーナードではなく、音楽やコンセプトを前面に出すように計画されていました。現在、あなたはバンドのフロントマンとして活動していることについて、どう感じていますか?

N: 不思議なんだ。僕が本当にバンドの一員だと思われているから、不思議な感じがするんだよ。僕が前面にいないといけない理由は、別の誰かだとシックの話が出来ないからだ。他の誰もその話は知らないんだ。だから、僕がシックの物語を語らなきゃいけないのさ。

情報元:NPR MUSIC


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