【1】introduction[1]
1977年にレコード・デビューを果たしたソウル&ディスコ・シーンの新星「シック(シーク)」。彼等はブーム後期を支えたひと組となり一世を風靡すると同時に、ラップ/ヒップ・ホップが生まれるきっかけとなった個性的なサウンドを作り上げた。83年に解散した後も、中枢メンバーだった三人は80年代前半から90年代にかけ、それぞれプロデューサーやプレイヤーとして大活躍する。
Nile Rodgers ナイル・ロジャース(ロジャーズ)
プロデューサー、ソングライター、アレンジャー、
ギタリスト、シンガー
Bernard Edwards バーナード(バナード)・エドワーズ
プロデューサー、ソングライター、アレンジャー、
ベーシスト、シンガー
Tony Thompson トニー・トンプソン(トンプスン)
ドラマー
【2】introduction[2]
シックは1992年に再結成されるがトンプソンは不参加。エドワーズは96年の来日中に東京で客死し、トンプソンも2003年に癌で亡くなった為、現在バンドに、いやこの世に居るのはロジャースのみだが、現在も彼が率いるツアー・バンド「CHIC featuring Nile Rodgers」としてその名は引き継がれている。
【3】Nile Rodgers [Sep.19,1952-]
1952年NY市生まれ。ビートニクであった両親(実母と継父)の影響もあり、いわゆるアフリカ系アメリカ人らしさからは遠い環境で育ったという。
リズム・ギターを売りとした彼の演奏は、リズム感やミュート気味のタッチが特徴だが、ジャズやクラシックの素養を活かしたコードの多彩さも注目すべき点であり、時折みせるギター・ソロではロック色の強い音色やフレーズも登場するなど、既にキャリア初期より様々な音楽性が見え隠れしていた。83年以降の彼の広範な活動・活躍を考えると納得。
【4】Bernard Edwards [Oct.31,1952-Apr.18,1996]
ロジャースと同じ1952年にノース・カロライナ州に生まれ、NY市ブルックリンで育つ。ロジャースとは対照的に典型的な黒人家庭で育ち、R&Bやファンクの洗礼を受けていく。彼のベース・プレイは、フレーズ作りは独創的ではあるものの、その音色自体はモータウンのジェームス・ジェマーソン(ジェイムズ・ジェイマスン)やブッカー・T.&ジ・MGズのドナルド "ダック" ダンといった、エドワーズが十代だった頃=六十年代に活躍した、名だたるベースプレーヤー達の影響を感じさせるものだ。
【5】Tony Thompson [Nov.15,1954-Nov.12,2003]
彼はロジャースとエドワーズよりも二歳若い54年生まれ。NY市クイーンズのミドル・クラスのコミュニティで育った。
両親がアンティグア(父)とトリニダード(母)という英国植民地/連邦の出身によることからか、アイドルはクリームのジンジャー・ベイカーやレッド・ゼプリン(ツェッペリン)のジョン・ボナムらであった。プロデューサー、ソングライターとして名を連ねていないからかロジャース&エドワーズよりも一段低い扱いだが(内外ともに)、シック・サウンドが他のソウル、ファンクと違う個性を獲得出来たのは彼の「ロック・ドラム」に負う所も大きいと思う。
【6/〜1976[a]】Nile meets Bernard
それぞれバンド・マン経験を積んでいたロジャースとエドワーズは、1970年にTV番組「セサミ・ストリート」のツアー・メンバーとして出会う(ロジャースはTVにも出ている)。二人は意気投合し、それぞれが得たバンドの仕事で「良いベーシストが居る」「良いギタリストが居る」と互いを呼び合っていたという。ジャズやクラシックを個人教授で習う一方で、70年代半ばには、ロジャースはアポロ・シアターのハウス・バンドにも所属し、昔ながらのR&Bやファンク、ザ・ジャクソン5といったポップ・ソウル等のバッキングを通してエンタテイナーとしてのステージ・マナーも吸収していく。
Photo NileRodgers.com
【7/~1976[b]】The Big Apple Band & The Boys
七十年代半ば、ヴォーカル・グループNew York Cityのバックを務めるThe Big Apple Bandのバンド・リーダーであったエドワーズは、いつものようにロジャースをバンドに引き入れ活動していた。New York City解散後もバンドを継続させていた彼等は、色々な音楽スタイルを演奏する為にThe Boys名義でも活動した。The Big Apple Bandではソウルのカヴァーを、The Boysではファンク・ロックを演奏したという。The Boysのデモ・テープに興味を示したレコード会社があったが、彼等がアフリカ系アメリカ人である事を知りデビューの話が消えるというヘヴィなエピソードもある。
【8/~1976[c]】Strike Up the Band
この頃にはトンプソンもバンドに合流している。彼はヴェテラン・ヴォーカル・グループ、ラベル LaBelle のバック・バンドや Ecstasy, Passion & Pain のメンバーを経ての参加。後年ロジャースと共演することになるドラマー=オマー・ハキム(ハキーム)とも当時から仲間だった。彼等は昼間の遊園地での仕事を当時まだ未成年だったハキムと、夜のライヴ・ハウス出演をトンプソンと行ったという。
なお同じNY市を拠点として活動していたバンド=ルーサー(Luther)のリーダー、ルーサー・ヴァンドロスは彼等のヴォーカル/コーラス・リーダーであり、ロジャース&エドワーズはルーサーのバック・バンドのメンバーでもあった。皆まだ修業時代、互いに助け合っていた時期である。
サイトMAP
サイトMAP
【9/1976[d]】Everybody Dance
1976年、The Big Apple Band は録音スタジオで働く友人の協力によりレコーディングの機会を得る(閉店後に無料で使わせて貰ったのだ!)。この時に作った12インチ・シングル「エヴリバディ・ダンス」が先鋭的なディスコだったナイト・アウル・クラブで話題となった。
同じ頃、映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」の「運命 '76」をヒットさせたウォルター・マーフィ&ビッグ・アップル・バンドとの混同を避ける為に改名する事となり、エドワーズのアイディアからシックと名乗っている。バンドの欧風なコンセプトはロキシー・ミュージックから、演奏者を意識的に伏せておく覆面性はキッスからそれぞれヒントを得ているという。ヒントをそのまま(解り易く)導入するのではなく、あくまでも彼等流に消化しているのが素晴らしい。
【10/1977】Dance, Dance, Dance
「エヴリバディ・ダンス」ではレコード・デビューの機会は得られなかったが、77年にウッドウィンズ奏者ケニー・リーマンと三人で作った「ダンス・ダンス・ダンス」がレコード会社の目に留まり、デビューの機会を得た。アルバム制作にあたりバンドとしての体裁を整える中で、リーマン、シンガー=ノーマ・ジーン・ライト、ヴァンドロスらコーラス陣、キーボーディスト、ストリングス、ホーンズが集められて『ダンス・ダンス・ダンス(Chic)』が録音された。「エヴリバディ・ダンス」は前年の演奏にライトのヴォーカルをオーヴァーダビングする形で仕上げられている。
エンジニアはボブ・クリアマウンテン。シックの最初の数年を支えた彼は、後年ブライアン・アダムズ等のプロデューサーとして名を上げる。録音スタジオはマンハッタンにあるエレクトリック・レディ。彼等の拠点となるザ・パワー・ステーション・スタジオはまだ建設中だった。
【11/1978[a]】Le Freak
レコードの売行きが好調の中、ライトがグループ加入時からの約束であったソロ・デビューの道へ進みシックを離れた。ノーマ・ジーン名義で発表した同名アルバムのプロデューサーはロジャース&エドワーズ、バックはシック。これがザ・パワー・ステーョンで録音された第一作となった。一方でシックはライト在籍時よりライヴでヴォーカルを分け合っていたルーシ・マーティンとアルファ・アンダーソン(アンダスン)を加えた五人組となる(以降83年迄は不動)。
78年に発売されたセカンド・アルバムは『エレガンス・シック(C’est Chic)』。先行シングル「おしゃれフリーク(Le Freak)」は全米第一位を記録、しかもアトランティック・レコーズ史上最大の売り上げとなる特大ヒット曲になった(この記録は90年のマドンナ「ヴォーグ」まで破られなかった)。
【12/1978[b]】The CHIC Organization, Ltd. - We Are Family!
『エレガンス・シック』で、作詞作曲編曲とプロデュースをロジャースとエドワーズが、演奏をシックが務める際のクレジット "The CHIC Organization, Ltd." が初めて登場する。既にデビュー時よりプロデューサー・クレジットは得ていた彼等だが、これでビジネス面でも主導権を握ったといえるだろう。この表記は83年まで使用されている(以下COと略記)。
『エレガンス・シック』がヒットしている間に、COが手がけたシスター・スレッジの『華麗な妖精たち(We Are Family)』も発売され、こちらも大ヒットとなる。アルバムとしてはこちらの方が有名かもしれない。
【13/1979】Good Times
勢いに乗る彼等はサード・アルバム『危険な関係(Risque)』を発表、シングル「グッド・タイムス」が再び全米一位に輝く。この曲は、同年発売されたラップ/ヒップ・ホップ初のヒット曲といわれるシュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・ディライト」のバック・パターンとなった。シックが「ヒップ・ホップ生みの親」といわれる所以だ。
年末にはグレイテスト・ヒッツ・アルバムが出され、彼等が表舞台へと華々しく進出した79年は終わった。今後も順風満帆だと思われた彼等に、この直後まさかの逆風が吹く事にはまだ誰も気付いていない。
【14/1980-3】The CHIC Organization > CHIC
79年から強まりだした「ディスコ・サックス(ディスコをダサいと思う[思わせる]動き)」にさらされ、シックは80年からがくんとセールスを落としてしまう。しかしCO作品であるダイアナ・ロス『ダイアナ』は大ヒット。見方によってはロジャース&エドワーズ当初指向していた「記名性の高い音楽を匿名性の高い面々が演奏する」という状態だともいえるが、シックの面々は複雑な心境でこの状況を受け止めた事だろう。
COは80年からの四年間で十枚以上のアルバムを制作した(シックを含む)。デビー・ハリー(ブロンディ)、ロジャースとエドワーズの各ソロ・アルバム(いずれもCO名義ではないが)、映画「スープ・フォー・ワン」のサウンドトラック他。バンドとしての結束が高まり密度の高い音楽が量産されると同時に、煮詰まりも見え始めていたと思われる。
そんな中、彼等の運命を大きく変える男との出会いが訪れる。彼の名前はデヴィッド・ボウイ。
【15/1983】Let's Dance
「変わり続ける」という姿勢を変わらずに続けたデヴィッド・ボウイ(本当に最後まで。R.I.P.)。彼がトニー・ヴィスコンティやロバート・フリップの次に組んだ相手はロジャースだった。83年にボウイと彼が共同プロデュースして発表した『レッツ・ダンス』は、ソウル、ファンク、ビッグ・バンド・ジャズを取り入れたロックがコンセプトだった。レコード会社を移籍しバックアップ体勢が強化された事も追い風となり、『レッツ・ダンス』は世界規模で大ヒットを記録した。これによりボウイは「顔と名前は有名だが曲は知らないカルト・スター」から、「『レッツ・ダンス』の人」として老若男女に知られる存在となった。スタジオはザ・パワー・ステーション、エンジニアはクリアマウンテン。エドワーズ、トンプソンも協力。トンプソンはボウイのワールド・ツアーにも帯同し来日もしている。
そして、このアルバムの成功によりプロデューサーとしてのロジャースの名前も一躍ロックやポップスの世界へ浸透し始める。
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【16/1984】Like a Virgin
84年にマドンナのセカンド・アルバム『ライク・ア・ヴァージン』が発売され、ダンス・シーンの新星だった彼女は一気に世界のポップ・アイコンとなる。ロジャースのプロデュース作品中、商業的に最も大きな成功を収めた一枚だ。収録曲のうち半分はエドワーズ、トンプソン達による生演奏、残る半分は打ち込みサウンド。その後数年間、ロジャースは自身のギターは残しつつも、後者=打ち込み音楽を主軸とした活動を行っていく。エドワーズが(多くの場合はトンプソンを伴う形で)バンド・サウンドを売りとしていくのとは対照的だ。
【17/1984-】Duran Duran
この頃、シックで育った世代が台頭してくる。代表格は「シックとパンクの融合」を目指したデュラン・デュラン(ジュラン・ジュラン、以下DDと略記)。ロジャースは84年のシングルに、エドワーズとトンプソンは85年のスピン・オフ・プロジェクト=ザ・パワー・ステーションに、更にエドワーズは同年DDが担当した映画「007/美しき獲物たち」の主題歌に関わり、交流を深めていく。
尚、ロジャースとDDは現在も親交を続けており、2015年発売のDD『ペイパー・ゴッズ』に参加した流れから、16年には初めて競演というスタイルで北米ツアーを行う予定だ。当然共演シーンもあるだろう(願来日!)。
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【18/1985】Nile ruled the American top 3!
85年1月5日付けの全米シングル・チャートで画期的なことが起きた。
1位. Like a Virgin /Madonna
2位. The Wild Boys /Duran Duran
3位. Sea of Love /The Honeydrippers
チャートの上位三曲がいずれもロジャースが関わった曲で占められたのだ。「ライク・ア・ヴァージン」ではエドワーズとトンプソンも演奏している。
この頃の彼等は多忙を極めており、83年から90年に三人が何らかの形で関わったレコードは百を越している(シングルのみの発売も一つとカウント)。
【19/1983-90】solo works of Nile, Berard&Tony
この時期に三人がプロデューサーやプレイヤーとして関わった主な面々は以下の通り。
Nile Rodgers:
Mick Jagger [with Bernard&Tony], Paul Simon [with Bernard], TM Network [Bernard also did], Mick Jagger&Davie Bowie, Jeff Beck, Thompson Twins, Daryl Hall John Oates [Bernard also did], Inxs, Sheena Easton, Pater Gabriel, Cyndi Lauper, Chaka Khan, Al Jarreau, Bryan Ferry, Philip Bailey, Kim Carnes, Sister Sledge, Diana Ross [Bernard also did], The B-52's, Eddie Murphy, Paul Young, Stray Cats, The Vaughan Brothers etc.
Bernard Edwards&Tony Thompson:
Joe Cocker, Robert Palmer, Air Supply, Jody Watley, ABC, Rod Stewart, Nona Hendrix, Missing Persons etc.
【20/1989-】Thinking of You- Rodgers&Edwards' reunion
ロジャース、エドワーズ双方の多忙さに落ち着きがみえだした89年秋、ロジャースの誕生パーティの席上で即席ライヴ・バンドが組まれ、二人が久々にシックの曲を演奏する機会があった。これに手応えを感じた二人は再結成を決意する。トンプソンはこの頃L.A.に拠点を移しており、本格的なロック・バンドを結成してデビューの機会を探っていた事もあり不参加。シンガーにはオーディションでシルヴァー・ローガン・シャープが選ばれ、彼女の推薦で友人ジェン・トマスを加えた四人編成での再結成となった(正式メンバーとしてドラマーは加入せず)。数年をかけて制作された『シック=イズム』は92年に発売され、シングルがダンス・チャートやR&Bチャートで好成績を残す。
【21/1992-】Thompson gets rocked!
シックの再結成と並行して、ロジャースとエドワーズは引き続きプロデュース活動にも精を出した。一方、トンプソンが在籍するアフリカ系アメリカ人四人からなるロック・バンド=クラウン・オヴ・ソーンズは、録音から数年にわたる契約先探しの末、94年にレコード・デビューを果たす。シックがデビューする前、The Boys時代の苦いエピソード(【7】参照)を思うと感慨もひとしおだ。
【22/1993】their last recording session
三人は、エリック・クラプトンのレコーディングで久々に顔を合わせる。
Eric Clapton /"Stone Free" "Burning of the Midnight Lamp"
produced by Nile Rodgers
vocal,guitar: Eric Clapton
rhythm guitar: Nile Rodgers
bass: Bernard Edwards
drums: Tony Thompson
実に『ライク・ア・ヴァージン』以来、およそ九年振り。エリック・クラプトンがジミ・ヘンドリックスをカヴァーしたセッションだった。この二曲は93年、2004年のトリビュート・アルバムへ別々に収録されている。この三人だからこそといえる独特のグルーヴが生まれていたが、結果的にこれが三人が揃った最後のセッションとなってしまう。
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【23/1995-6】JT Super Producers 96-Nile Rodgers
94年に始まった、プロデューサーを主役とするユニークなコンサート・シリーズ「JTスーパー・プロデューサーズ」。第三回である96年の主役はロジャースだった。
彼はシックをハウス・バンドとしたレビュー形式のライヴを企画。エドワーズ、シャープに加え、ハキム、シンガーのジル・ジョーンズ、クリストファー・マックス、キーボーディストでスタジオワークの片腕リチャード・ヒルトン他をシックの名のもとに集める(トマスは音楽業界から離れていた)。これがシックの初来日公演となった。彼等に加え、ゲストとしてシスター・スレッジ、スティーヴ・ウィンウッド、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュ、DDのサイモン・ル・ボン等が参加した。
【24/1996】after the Budokan show- At Last He Is Free
大阪で一回、東京で二回行われたライヴは成功裏に幕を閉じた。しかし、最終日の翌晩、力尽きたかの様にエドワーズが東京のホテル自室で息を引き取ってしまう。享年四十三。
ライヴ最終日は体調の悪さを押してなんとか務め上げた状態だったとはいえ、本人も含め、まさかの幕切れだっただろう。大きな手応えを感じた二人が、新たなプロジェクトを立ち上げようとスラッシュやウィンウッドと共に盛り上がっていた矢先の悲劇だった。
【25/1997】With Real People
エドワーズとの予期せぬ突然の別れを経験し、ライヴへの意欲さえも無くしていたロジャースを再びステージに立たせたのは、現シックのベーシスト、ジェリー・バーンズだった。彼と妹のカトリース(キーボード)そしてロジャースの三人でエリック・クラプトンへの楽曲提供とプロデュースを行う傍ら(残念ながら未発表に終わっている)、日本からの公演打診をきっかけとして、バーンズ兄妹がJT・・・バンドに加入する形でバンドを再編する。相棒の亡くなった地という悲しい理由からではあるが、バンドはこの年より、ほぼ毎年来日公演を行う様になった。
【26/1997~】 Let's Dance (Again)
ライヴ活動再開当初のレパートリーはCOの作品(すなわち自作曲)で占められていたが、2009年以降は、ボウイ、マドンナ、DD等の、作曲には関わっていないプロデュース作品を加え始める。これは「ソウル&ディスコ・シーンの名裏方」にとどまらない「八十年代ポップ音楽の立役者であるナイル・ロジャース」という側面を強く押し出す変化といえた。
エドワーズのみならずトンプスンとヴァンドロスというシック初期の仲間の死も経験し(それぞれ2003年、2005年)、五十代を迎えていたロジャースにはキャリアを回顧する時期が訪れていたのだろう。ライヴのこうした変化は、彼が自分達の足跡を後世に伝える役割を自覚したが故のものだと思う。
【27/2009】Music Is My House, Music Is My Soul
自伝を執筆し始めた事もきっかけになったと想像するが、前項で触れた通り2009年に、ロジャースは彼自身をより中心に据える方向でバンド・メンバーを入れ替え、ライヴ・レパートリーを追加する。
尚、自伝は “Le Freak: An Upside Down Story of Family, Disco and Destiny" と題され2011年に上梓され、文筆家としての筆力を活かした新たな道が拓けていく。総合エンタテインメントの一つの頂点=ミュージカルへの進出だ。原作者、音楽監督および出資者として関わり、目指すはブロードウェイ。こちらは2016年現在も数本の企画が進行中という。
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【28/2009~10】Box Set
2009年に、長らく行方不明となっていたCO時代のマスター・テープがアトランティック・レコーズの倉庫から大量に発見されたとの報せがロジャーズに届く。これはCDボックス・セット発売の話へと繋がった。発売を前にシックはひと足早く、その名も 'Box Set Tour' と題されたツアーを2010年の春から行う。マスターは夏にロジャースの手元へ届いた。
四枚組というヴォリュームで編まれた "Nile Rodgers presents The CHIC Organization Box Set Vol.1: Savoir Faire" は十月に発売された。ロジャーズが立ち会ってのリマスタリングで音質が飛躍的に向上した既発表曲に加え、未発表曲やアウトテイク(生々しいリズム・トラック録りの模様!)も含み、更にライナー・ノートも自身で手掛けた充実のボックスは、入門編としてもマニア必携アイテムとしても歓迎されている。
【29/2010~11】Walking on Planet C & pray for Japan
しかし同じ十月、ロジャースの身体から前立腺癌が発見されてしまう。これは翌一月、闘病を誓う為に自身が立ち上げたブログ "Walking on Planet C"(惑星Cを行く[C: cancer、癌])上で公表された。手術や闘病の様子が自らの文章で綴られ始めて間もない三月、我が国で起こった東日本大地震に際してはいち早く動画コメントを公開し、四月の来日公演は日程通り行われた。当時の彼の体調と日本の国情を考えれば奇跡的かつ感動的な公演といえた。
幸いにも手術は成功、術後の経過も順調で再発や転移は確認されておらず、彼は後年、根治を宣言している。
Photo NileRodgers.com
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【30/2011~】as the godfather of EDM
・デビュー時より、ロッド・スチュワート「アイム・セクシー」、クイーン「地獄に道ずれ」、ザ・クラッシュ「ディス・イズ・レイディオ・クラッシュ」に始まり、ラップ、DD、ジャミロクワイ、パフ・ダディ(ショーン "パフィ" コムズ)、ジャスティン・ティンバーレイクと、常に音楽シーンに影響を与え続けてきたシックだが、2010年代に入りその流れは激化、「ナイル・ロジャース」の名前が改めて広く浸透していく。
そのきっかけはエレクトリック・ダンス・ミュージック(EDM)の隆盛。そのルーツとして脚光があたり、しかもロジャース自身が現役ミュージシャンとしてEDMの面々と共演し、その曲名表記に "featuring Nile Rodgers" と頻繁に記されていったからだ。
【31/2013】Get Lucky
2013年、ロジャースはEDMの代表格といえるダフト・パンクのアルバム『ランダム・アクセス・メモリーズ』に参加する。彼等の売りであった打ち込みのコンピューター・ミュージックではなく、ミュージシャンを起用した生音へと大きく舵を切った事から賛否両論となったアルバムだが、彼等は打ち込み期からシックの影響を感じさせていただけに、ロジャースの参加は自然な流れだったのだろう。
シングル "Get Lucky [featuring Pharrell Williams and Nile Rodgers]" は大ヒット。ファレル・ウィリアムスとロジャースはジャケットやPVにも出演し、彼を知らない世代や層が「あのニコニコ笑ってギターを弾いているドレッド・ヘアのおじさんは誰?」と注目した。ダフト・パンクを知らない一般層からは、ロボット姿の二人ではなくウィリアムスとロジャースをダフト・パンクと誤解するという、シック側からすると嬉しい勘違いもあった!
【32/2014】He Got Lucky (Finally)
ダフト・パンクは2013年(翌年一月発表、授賞式)のグラミー賞に於いて五部門のアワードを獲得。共作者/演奏者として、ロジャーズもそのうちの三部門を彼等と共に受賞する。彼にとってはこれが初のグラミー受賞だった。
授賞式で披露された「ゲット・ラッキー」のパフォーマンスには、ウィリアムスとロジャース、レコーディング・メンバーであったハキムやネイザン・イースト(ベース)だけでなくスティーヴィー・ワンダーも参加、これはこの年の受賞式を代表するシーンとなった。「ゲット・ラッキー」をシック「おしゃれフリーク」やワンダー「アナザー・スター」とマッシュアップしたパフォーマンスは、ロジャースがこだわり続けてきたダンスミュージックの一貫性と革新性の両面を強調した。
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【33/2013~】In Love with Music
ダフト・パンクとの共演後もアヴィーチー、サム・スミス、レディー・ガガ等、音楽シーンの先端や中心に彼の名は記され続けている。それらに先立つ形で共演したアダム・ランバート「シェイディ(フィーチャリング・ナイル・ロジャース)」も含め、シック当時を実体験では知らない世代が、自分達のルーツとして彼を「発見」した。
ずっとトップ・スターでいる面々は別として、還暦を過ぎた「人気『裏方』ミュージシャン」が、この様な形で再び脚光を浴び、しかも、おそらくは昔よりも知名度を上げているのは稀な例といえるだろう。
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【34/2015~】It's about Time and I'll Be There!
この追い風の中、92年以来となるシックの新作アルバム『イッツ・アバウト・タイム』(そろそろ出番だ)を仕上げつつあるロジャース。エドワーズとトンプソンら初期メンバーによる演奏(発見されたマスター・テープからの未発表セッション、【28】参照)に現メンバーが追加録音をする形で仕上げられた曲も多いと聞く。2015年に発売されている先行シングルはその名も「アイル・ビー・ゼア」(そこにいくよ)。新曲にもかかわらずプロデューサーとして記されているのはロジャース&エドワーズ。ロジャースは「バーナードは僕の心の中で行きている」と語っている。
シックの、ナイル・ロジャースの前進は続く。