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38年ぶりにリバプールへ帰ってきたナイル・ロジャース!



ナイル・ロジャースは、ここリバプールのステージに戻ってくるまでに38年の歳月をかけた。

スコース・ショア(リバプール)で彼を最後に観た1979年、そのショーのオープニングは短いながらもオシャレで間違いないものだった。

「君たち、ここへはパーティーをするつもりで来てくれたんだよね!」彼は、ソールド・アウトとなったリバプール・エコー・アリーナの観客に向かって叫んだ。そこはまるでダービー開催日やグラワディーズ・ストリート(騒々しいことで有名な競技場の観客席)のようだ。会場内の良い座席の観客でさえ、トータル90分の長いショーについては会場のすぐ裏手への駐車を諦めざるを得ないほどだ。

「愛して欲しい」は観客を躍らせる最初の曲だ。シックの情熱的なボーカリスト、キンバリー・デイビスが、ロジャースのチャート1位を獲得した曲のメドレーの前に歌い上げた。

私たちがこれらの曲を忘れていた時のためにと、彼はダイアナ・ロスの「アイム・カミング・アウト」を立て続けに演奏し、「アップ・サイド・ダウン」「グレイテスト・ダンサー」へと私たちを導いた。 「ダイアナ・ロス、デヴィッド・ボウイ、ダフトパンク.....彼らは【Dチーム】なんだ!」と、常に笑顔を湛えたロジャースがジョークを飛ばす。

自慢話をしている時でさえ、この65歳の男は自らの気持ちをなだめて寛大でいるようにコントロールしている。 「僕は今日、最高のミート・アンド・グリートをリバプール芸術大学で経験したよ!」 シックがシスター・スレッジの『ウィー・アー・ファミリー』を全力で演奏してくれる前に、ロジャースはその様子紹介してくれた。そしてデイビスが圧倒的な高音で歌ったソロ・パートは背筋がゾクゾクするほどだった。

15周年の記念にこの正真正銘のレジェンドをヘッド・ライナーに起用したことは、リバプール・ミュージック・ウィークにとって大成功だった。ロジャースとシックは昨年の夏、夕暮れのグラストン・ベリー・フェスティバルでピラミッドステージにて観客達を大いに盛り上げたことで、この日また流行の中へと戻って来たのだ。

マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」とデュラン・デュランの「ノートリアス」という二つのヒット曲は、今夏のワーシー・ファーム(グラントンベリー・フェスティバル)では演奏されなかったが、今夜のセットリストには含まれていた。そしてこのことは、ナイル・ロジャースについて「この曲も彼が書いたの?!」という共通の感想をも促した。

果てしなく続く歴代ヒット曲と並んで、いくつものグラミー賞を受賞した作曲家でプロデューサー、アレンジャーでギタリストであるロジャースは、聴衆を魅了する方法を知っている。

ロジャースは、私達に癌との闘病のストーリーを話してくれた。それは、ロジャースが医師から将来における悲観的なことをいくつか宣告され「身辺整理をするように」と言われ、しかし彼はそうする代わりに二人のフランス人(ダフト・パンク)とファレル・ウィリアムズと共に世界的シュマッシュ・ヒットとなった「ゲット・ラッキー」という曲を作ったというストーリーだ。

「あれから7年後の今、リバプールのみんな!僕は癌をすっかり克服したんだ!」ロジャースはそう宣言した。シックによるヒット・チューン「おしゃれフリーク」の前に演奏されたデビッド・ボウイの「レッツ・ダンス」は、ロジャースがかつてうけたという癌の宣告を無効にする曲として、申し分なかった。 シックとナイル・ロジャースは、6月以来、ヨーロッパとアメリカの各地で立て続けにショーを行って来た。最近では、マージサイド州(リバプールがある州)に来る前にブラジルとアルゼンチンに滞在していたが、明日の公演が終われば2月までゆっくり休めるそうだ。

「僕はこのパーティのおかげですっかり謙虚な気持ちになれたよ、リバプールのみんな!」ロジャースの言わば音楽的履歴書として、今夜のショーのことが彼の仲間によってかくもすらすらと書き加えられたのだった。 レコード・プロデューサー、アレンジャー、彼独特の有名なカッティング奏法の「チャッキング」を発明したギタリスト、そしてGQマガジンのベスト・ドレッサー賞やロックの殿堂入りという二つのアワードを受賞しているこのニューヨーカーには1ミリのエゴも見当たらない。

その夜は、シックの最も愛されているであろう曲「グッド・タイムス」によって締めくくられた。

音楽はまだ続いている。私達は今もフリークアウトしているのだ!

情報元:ECHO


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